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常識がないんじゃないの?

勤務する高校の美術部の一年生を引率し、美術館見学。

まず国立新美術館の「ウィーン・モダン展」へ。その後、東京都美術館で、「アートオリンピア2019」 を観てきました。

 

アートオリンピア会場では、みんな頭に「?」マークがついてる感じで、軽くパニック。

そして、観終わった1人の部員がボソッと「芸術をやっている人って、常識がないんじゃないの?」

おおっ、大胆な一言。そういう面は無きにしも非ずだが、それはきっと、芸術が、常識を疑ったり、今まで無いものを生み出そうとする営みだからなのだよ。と、野暮なことを言いかけた。

 

でも、言葉で説明するよりも、直に見て感じたインパクトの方が大きくて記憶に残るから、きっと大人になってから思い出して理解してくれると信じているよ。

 

そこで感じたこと。クリムトやシーレも知らない生徒達ですが、すでに「芸術作品」として美術史の一部となっている作品を鑑賞することと、同時代のモノを見ることは、随分意味が違う。

 

後世に影響を与えたがためにどこか既視感のある作品(例えばジョジョの奇妙な冒険に、シーレを見る)を、ありがたく(?)鑑賞するのと、評価の定まっていない、高校生にしてみればわけのわからない作品に囲まれのでは、態度が変わってくるみたいだ。

別の生徒は、アートオリンピアの展示作品を見て「これなら僕にもかけそうなんだけど。。」

そう、そうなんだ!そう思って始めること、そう思って作品を見ることが必要だ!と、岡本太郎の名著「今日の芸術」を思い出したりしていました。

(一応、世界100カ国・地域から応募のあった5,684点のうち上位280点しか入っていない、結構ハイレベルな展覧会ですけどね。)

 

芸術に教養や正しさばかりを求めて、鑑賞にも本来の自由さをないがしろにしていないか?と、自問。若者が現代のアートに触れること、自分の責任で鑑賞すること、わけわかんないけど面白そう、の大切さを感じた1日。あんなに気持ちのこもった感想、ウィーン・モダン展の後には聞けなかった。

 

ちょうど、ゴッホやテオとその時代に活躍した日本人画商の物語「たゆたえども沈まず」(原田マハ著)を読了。新しい芸術を命懸けで生み出した人々の、熱い想いを感じていただけに考えた。

私自身は中学生の頃、ゴッホの絵に驚きその激しさに興奮した。でも、今はあの時ほどの刺激を受けることができない。それは社会(というか現代に生きる人々)も同じではないか。3年ほど前に、高校生が「ゴッホの絵って綺麗だよね」と言ったことに衝撃を受けた。他の生徒に聞いても、ゴッホにそれほど”激しさ”を感じていない。いつの間にか、あの激しさは特別なものではなくなっていた。

 

・・・・クリムトたちが新しい芸術を生み出すために戦っていたそのもっともっと先で、誰もいない未開の地を開拓していたゴッホとテオ。

 いのちの煌めきを絵にすることができた稀有な才能。

「そうだ、私たちはこんな心の昂りをもっている、こんな孤独を持っている」と気づかせてくれた、世界の見え方を変えた発明家。

 

でも残念だけど、宮崎駿が「風景は磨耗する」と言ったことと同じように、芸術作品も磨耗するのだろう。

もう現代に生きる私たちは、ゴッホではダメなんだ。

もちろん、あの熱と、激しさと、寂しさとピュアな心は特別だし、作品としての魅力は失われることはないけれど。

 

今を生きる人に、今制作していくことが大切だ。

常識を覆すくらい、真剣に未来を見ていこう。