カタストロフと美術のちから展

森美術館で開催中の「カタストロフと美術のちから」展。同時開催中のカードキャプターさくら展の行列には及ばないものの(!)、現代美術を扱った展覧会としてはかなりの人。レアンドロ・エルリッヒ展もそうだったが、森美術館の企画、運営、集客力にはいつも感心してしまう。

さて、展覧会は、カタストロフ(=大惨事)を美術作品がどのようにとりあげ、またそこにどのような効果・作用がるのかを見るという軸で構成されている。

ずっとみたかった池田学の「予兆」「誕生」や宮島達男「時の海ー東北」、オノ・ヨーコ「色を加えるペインティング(難民船)」などが、ゆったりと鑑賞できた上に、坂茂の「紙の大聖堂の1/10模型」や、アイザック・ジュリアンの映像作品など、あることを知らなかったが見ることができてラッキーな作品も多数あり、大満足な展覧会だった。

 

そこで、いつも思っているけどやはりそうなのかなと思った事・・・。

アートシーンでは、その地域特有の苦しみや惨劇や史実、政治的な出来事に対する一種の意見表明として作成された作品が注目を浴び、世界の人々に気メッセージを発する良いきっかけになっていたりする。

その事自体は、とても良い事で、金や力ではない方法で人々に訴えかけることは、素晴らしいと思う。

 

ただ、アートの本当に大事なちから・魅力は、そんな惨劇や苦しみの中でも自分の感情を知覚し、喜びや悲しみ、衝動や欲望、痛みや興奮が紛れもなく自分のものだと知ることにあるのではないかと思う。

作品に対峙した時に、まるで自分の心を目隠しだが直に手で触っているかのような生々しさを感じるあの瞬間。それが自分の命を尊いモノだと感じさせてくれるのではないか。

制作する者にとっても、受け取る側にとっても。

 

だから惨事をモチーフにした時にそのメッセージや話題性が先行しようとも、その裏にある作者の想いが本当に心を動かしているものだけがなぜか見る者を惹きつけ心震わせる。

 

髙橋正子の「アートで何ができるかではなく、アートで何をするかである」にある子供たちの作品群と、そこに込められた想いは、しばらく動けなくなるほどに子供達の心が記録されていた。